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【芥川】考え過ぎる人と何も考えないおめでたい人とでは、どちらが幸せか【J・S・ミル】




 

満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。
同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。
そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである。 」

 

ジョン・スチュアート・ミル功利主義』 (太字は引用者)

 

 


まず最初に書いておきます。

私は、ミルの「功利主義」を読んでいません!w

なので、ここに書くことは、私の暇潰し、戯言。となっておりますことをご承知おきください。(読んでないのに書いちゃう暴挙であります。すみません。)

 

以下本文

 

 


私はずっと考えてきた。

 

考え過ぎる人と、何も考えないおめでたい人では、どちらが幸せなのだろうか。

 

そんな私であるから、この本を買ったのである。

 

https://amzn.to/2G3tEiS

 

この本の中身はタイトルの答えにほとんど触れていなかった・・・

私はがっかりして、この本を手放した。

 

 

そして、私は最近、自分で結論に至った。

 

 

だから私がここに書きます!

 

 

 


何も考えないおめでたい人の方が幸せである。

 

 


いいなぁ。羨ましいよ。

 

 

私はもちろん、考え過ぎる側です。

そもそも「考える人とおめでたい人はどちらが幸せか。」なんて問を持ってしまった人は、考える側です。

 

 

そして、なぜ、私がこの結論に至ったかというと、哲学的理由はまったくなく

まわり見てるとそうっぽい! 

 

 

という事です!!!・・・・

でも、明らかに、何も考えていない人の方が幸せそうなんですもの。

 

 

そして、芥川龍之介もこう言っています。

 

彼の幸福


 彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。同時に又彼の不幸も、――ああ、何と云う退屈さ加減!

 

 

椎の葉


 完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権である。

 

芥川龍之介侏儒の言葉』(太字は引用者) 

 

 

「彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。」

「完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権」であるそうなので、芥川の意見としては「何も考えない人は幸福」と考えて差し支えないと思う。

 

 

 


ミルの不満足なソクラテスの話に戻ります。

 


私はジョン・スチュアート・ミルに問いたい。

 


満足な豚であるよりも、不満足なソクラテスの方が良いなら

 


何が良いのか。

この「良い」という言葉は、私から見れば、明らかに「幸せである」という意味ではない。

試しに「良い」→「幸せ」に置き換えて読んでみよう

 

 

満足な豚であるより、不満足な人間である方が幸せである。

同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が幸せである。

 


うん。すごく違和感。

明らかに、満足してる豚の方が幸せそう。

 


というか、「良い」という言葉より「満足」という言葉の方が「幸せ」に近いニュアンスを秘めているとしか思えない。

「満足」=「幸せ」 と捉えた方がしっくりくる。

試しに「満足」→「幸せ」置き換えて読んでみよう。

 


幸せな豚であるより、不幸な人間である方が良い

同じく、幸せな愚者であるより、不幸なソクラテスである方が良い

 


こう読み換えると、原文と近い意味なような気がしてしっくりくる。(私個人的には) 

ということは

 


すでに、どちらが幸せか書いてあるのだ。

 

 

「満足」=「幸せ」と捉えるなら

 


豚の方が「満足」=「幸せ」なのだ。

ソクラテスは「不満足」=「不幸」なのだ。

 


これが、もはや前提なのではないか。と思う。

 


つまり、私の「考えすぎる人は不幸っぽくて、なんも考えてない人は幸せそう。だから考えない人の方が幸せだ。」という、乱暴な結論もあながち間違ってはいないような気がする。だって、そもそも、ソクラテスは不満足なんだから。


事実、ソクラテスは不満足なのだから。(2回言った)

 

それが前提なのだから。

 

満足なソクラテス、不満足な豚というのもまた、想像しにくい。

 

満足という感情は、やっぱり幸せなんじゃないか?と思う。

 

 


では、ミルの言う「良い」とは何の意味であるか。

ジョン・スチュアート・ミル功利主義の擁護者であり、功利主義が「最大多数の最大幸福」を主張しているのであれば、

やはり、この「良い」というのは、幸福のことなのではないか?

 

 

え?

 

 

「良い」=「幸せ」?さっき違和感感じたやつやん。

もしそうだとするとやっぱり違和感を感じてしまうよ。私は。

私のような馬鹿が、歴史的偉人である、ジョン・スチュアート・ミルに反論するのはかなり気が引けるのだが、

やっぱり違和感を感じてしまうよ、私は。

 


ミルは、快楽は単なる量だけでなく、質があるとし、高尚な快楽と低級な快楽とに分けた。高尚な快楽ほど、質が高い。と言った。

そして、感覚的な快楽よりも知的な快楽はより多くの価値を持っているとした。

 


これを加味して考えれば

 


満足な豚 = 快楽の量は大きい(満足だ)が、その快楽は、低俗な(食欲、性欲、睡眠欲のたぐいの)ものであるので、質が低い。よって幸福ではない。

 

不満足なソクラテス = 快楽の量は少ない(不満足だ)が、その快楽は、かなり高尚(知的)であるので、質が高い。よって幸福である。

 


という意味なのか?

 

 

しかし、こう考えるなら、ミルさんが言おうとしていた事は、私には理解できる。

 

 

快楽の量が多いように見える豚だけど、質が低いから不幸だよ。

快楽の量が少ないように見えるソクラテスだけど、質が高いから幸福だよ。

 

 

わかる。

 

 

言っている事の意味としてはわかる。

しかし、私は反対だ。不満足なソクラテスの方が幸福なんて、感覚とかけ離れている。

 

 

私個人は快楽に、低俗も高尚もないと思ってきた。

 

 

 

 

人の為になる事をして感じる快楽は高尚である。というのに対する違和感。 

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たまに、人の為になる事をして良い気分になるのは、高尚な事だ。と言っている人がいる。

 

 

私は、そうは思わない。

 

 

善意とは、最終的に自分の快楽のためになる。

誰かを救うということは遺伝子的に快である。

 

 

だから「誰かのため」というのは、確かに誰かのためであるのだが、それと同時に「誰かのために行動する」という快を得るためともとることができる。

人を助けてみた結果、ヒトは「なんだこの快は!?」と他人に親切にする気持ちよさに気づく。

 

 

だが、その快は

人間が動物を超越した存在で、理性が本能に打ち勝ち、自分の快楽より、他人の尊い命を守れたから「快」

なのではなく

その快も動物的本能の一種で、本能を律した快ではなく、本能に屈した快であるのだということに気づいていない。

 

 

本能にはもともと種が生き残るために、同じ種(人間)を救うことが快であるようなDNAが埋め込まれているのだから。特に、同じ種類で生殖可能である、同じ種(人間)の命を救うのであれば、その快は絶大だ。

 

 

それを理性や宗教や、人間が崇高な生き物であるが故の快であると勘違いして自分は道徳的だと、まるで崇高な気分になってしまう。

 

 

しかし、現実にはその快の出どころは、人間の本能に根ざした快であり、

「食べたから快」「異性と話せたから快」「眠れたから快」そして、他人を助けることが崇高だと思っている人たちが、低俗だと思いがちな「( 自主規制 )快」と同じ種類の快であるということがまったく見えていないのではないかと思う。

 

 

 

ちょっとまとまらなくなってしまいましたが、

とにかく、私が言いたいのは「物を食って快」「誰かを助けた快」は、どっちも低俗とかなくて、結局DNAによってもたらされた快に過ぎないよ。と言いたかったんです。

 

 

芥川さんもこう言っています。


好悪


 わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯ただ我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
 ではなぜ我我は極寒の天にも、将まさに溺おぼれんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依よったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈はずである。いや、この二つの快不快は全然相容あいいれぬものではない。寧むしろ鹹水かんすいと淡水とのように、一つに融とけ合あっているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁を啜すすった後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか?


芥川龍之介侏儒の言葉』(太字は引用者)

 

 

まず、そもそも、道徳的に悪とか善とかはないんだよ。

ただ、私達の体が、快、不快を感じているだけ。

 

 

そして、精神的快、肉体的快は相容れないものではなく、1つに溶け合っている。 

芥川の考えは、精神的快楽を高尚だとするミルさんと逆の考え方だと思う。

 

 

 

 

 

 

ずっと私は、上記の事を思って生きてきたが、なんとなくもやもやしていた。

しかし、今日この文章が書けてよかった。

もやが、晴れた。

 

 

文章にして、自分の考えている事を可視化できて、めっちゃスッキリした。

 

 

 

しかし「何も考えない人が幸せだ!」という結論が私の中で出たとしても「考えすぎる側」の私が、「じゃぁ明日から何も考えない人になろう!!」っというのは出来ないんです。

 


そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである。 」


ジョン・スチュアート・ミル功利主義』(太字は引用者)

 

 

豚は、ソクラテスの立場には立てないのだから反論出来ないでしょう?っと言うのがミルさんの意見だ。

 

でも、ソクラテスも豚の立場にはなれないでしょうが!!

ソクラテスの意見が真実と違えば、それはソクラテスが自分(考える側)の主張しか出来ないからって事にはならないんですか?

 


結局ミルさんは、頭が良いから、何も考えてない豚の気持ちなんかわからないんだと思います。

 


じゃぁ、どうすりゃ良いんですか?私は。 

どうすれば幸せになれるんですか?考える側の私は?

 

 

私は、明日からも、考えすぎて、不満足に生きるしかないのでしょうか・・・・ 

死んでないで教えてくださいよ。芥川。

 

 

古典


古典の作者の幸福なる所以は兎に角彼等の死んでいることである。

 

芥川龍之介侏儒の言葉

 

 

死んでないで一緒に考えてよ。芥川。

 

 

 

 

 

 

 

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