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生きている状態と、死んでいる状態の違いは何か。私的考察。【ひよこミキサー】




メメント・モリ

 

人は他の動物より死ににくい。

だから死を忘れて生きている。

目の前の人もいつかは死んでしまうだろう。


死とは何か。私に答えはわからない。

 

 

 


私の祖父が亡くなった話

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死を考える時、私は私のおじいさん、おばあさんの事を思い出す。

 

おじいさんが亡くなった時、私は小学生だった。

 

その日、よく覚えていないが、親につれられて、おばあさんの家に行った。

 

おじいさんの顔に白い布がかけられいた。

 

なんだろうこれは。小学生の私にも「死んだ。」という事はわかった。しかし、深い悲しみはなかった。よくわかっていなかった。

 

ただ、周りの人が、みんなすごく悲しんでいるから、この事象は悲しいことなんだと思った事を覚えている。

 

正直、小学生の私にとっては、よくわからず、そこまで悲しいことという認識はなかったが、ここは、悲しい顔をしとかないとヤバイ。と思っていたような気がする。

 

今思えば、なんという子供なんだろうか・・・しかし、しょうがないよね。子供だもん。

 

そして、一番悲しんでいた人物は、間違いなくおばあさんだ。私のおばあさんはとても悲しみ、とてもとても、泣いた。

 


ひよこミキサーという話がある。

 

なんか、ネットでは「検索してはいけない言葉」とかいうのになっていて、グロ話扱いだが、

 

もともとは、神経を研究していたポール・ワイスの提唱した思考実験で「生きたコケコッコの胎児を、ミキサーにして体液にすると、何が失われたのか?」という思考実験のことだ。

 

思考実験なので、もちろん本当にやるわけではない。考えるのだ。

 

 

私的には、確かに、「物質の量としては、何も変わっていないのに、生命が確かに失われた」と考える思考実験としては、インパクトがあって面白いと思うが、

 

それよりも、同じ状態で、生きているコケコッコの胎児と、死んでいるコケコッコの胎児では何が失われていたのかの方が気になる。

 

生きたコケコッコの胎児 → ミキサー では、明らかに、「構造」が失われているように感じる。(もちろん、科学的に、失われている元素(物質量)はない、それがこの思考実験の主題だ)

 

しかし

 

生きたコケコッコの胎児 → 死んだコケコッコの胎児 の変化では何が失われたのか、さらにわかりにくく、思考実験(思考対象)としては面白い気がする。

 


私の祖父も同じである。

 

私の祖父は午前中は確かに生きていた。しかし、午後には亡くなっていた。祖父の体は、「それ」の直前と直後を比べれば、構造上の違いはない

 

動いているのか、動いていないのか。の違いしかない。

 

生物的には、動いていれば生であり、動いていなければ死なのだ。

 

私達の体は日々動いている。

 

寝ている間も呼吸をし、血液は流れ脳みそには電流が流れている。

 

 

死とは、この動きが止まる事を指し示している。

 

 

まったく同じ物質が存在していても、動いていなければ、生きてはいないのだ。

 

 

そして、この動き(命)は最高に複雑で、一個体の中で、全てが絡み合って動いていて、一箇所が停止すれば、だいたい他も停止する。

 

 

そして、一度停止すると、全てを一度に、完全に復旧しなければ行けないので、その操作は困難を極める。

 

 

精巧な、何億もの歯車が、私の体のなかで、絡まり合って、奇跡のように、複雑に動いているのを感じる。

 

 

おそらく、命とは、この、奇跡の動きだ。

 

 

動きこそが生命だ。これが、私の答えである。

 

 

人間の技術が、行き着くところまでいきつき、3Dプリンターのようなもので、原子レベルを並べる事ができるようになれば、そして、それを、奇跡の歯車のように動かすことができれば、人間は生命を作り出す事ができるだろうと、私は予測する。

 


私的には、結論が出た。

 

 

生きている状態と死んでいる状態の違いは、生命の歯車が回っているか、回っていないか。

 

 

それでも、わからないことがある。

 

意識に関してだ。

 

なぜ、命の奇跡の歯車が回っていると、私達は感じ、言葉を発し、泣き、笑うのか。

 

これは意識のハードプロブレムを解くであろう天才の出現を待つしかない。

 

私には、考察すらできないのだ。まさにハードプロブレム = 難しい問題である。

 

 

 


私の祖父の話に戻ろう。

 

その日、おじいさんの歯車は止まって、動き出すことはなかった。

 

おばあさんはとても泣いた。

 

しかし、私も、そしておばあさんも、その時はまだ、おじいさんが亡くなったことを頭では理解していても、心の底から理解していなかった気がする。

 

 

何故かと言えば、そのとき、生命の歯車は止まっていたが、構造は失われていなかった。

 

その後に、構造が失われるその時こそ、私達は生命の終わりを心で感じ、そして、目の前で起こる生命の終わりは、生きている私達に衝撃を与えるからだ。

 

 


ポール・ワイスさんが、オブラートに包んで、構造の消滅をひよこで説明してくれたのに。

 

 

今、私がこのオブラートを破ってしまった気分だ。しかし、私の幼い頃に感じたあの気持を、このページに記しておきたい。

 

 

 

 

 

 


 

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