人が楽しそうにしている事が、自分も楽しいとは限らない

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今日は嫁と富士急ハイランドに行ってきた。

と言っても本当に行っただけだ。

 
 

今(2019年3月)富士急ハイランドは入園するだけなら無料だ。
払ったのは駐車場代1500円のみ

私は絶叫系が無理だし、お化け屋敷も怖い。

しかし、嫁が、「富士急散歩したい。」と言ったので行ってみたのだ。

 

そこで、人々は、スケートをしたり、ジェットコースターに乗ったりしていた。
トーマスランドでは子供がはしゃいでいた。 

皆、とても楽しそうだった。

私も散歩するのは楽しかったが、スケートもジェットコースターもお化け屋敷も楽しめる気がしなかった。

 
 

だが、それでいいと思った。

 

私は嫁とただ散歩しているのが楽しかった。

 
 
 

私が大学生のころは、まわりが楽しそうにしている事はとりあえずやってみていた。

どこか毎日を楽しめていないような気がする。という不安。人生をもっと楽しみたいという気持ちがあったからだ。

 
 

飲み会に行ってウェーイしてみたり、人並みの大学生みたいな事をした。 

自分が楽しんでいるのかわからなかった。

無理して楽しんでいる気分が拭えなかった。

 

心のそこから、笑っていなかったときもあった。

心のどこかで、「飲み会って金かかるし・・・・なんでやるんだろう。」と思いながら、無理して酒を飲んでいた。(私は酒が弱い)

 
 

バスケサークルに誘われるがまま入ってみた。

運動は全然得意ではなかったし、バスケは苦手だった。

皆、楽しそうだった。

バスケを夜までして、「じゃぁこのあとは、飯食って〇〇んちで飲もう!」

私は帰った。

 
 

さらに遡れば、高校のとき。

体育の時間になると、みんな「よっしゃー体育だぜ!」と言っていたので、私も皆に合わせて「わーい(棒)」と言っていた。

私は体育が嫌いだった。そして、座学が好きだった。

 

学校行事ともなれば、クラスメイト「やるぜー!」「楽しい!」だった。

私は、日々の学びが好きだった。

 

高校の修学旅行は京都だった。

クラスメイトはブーイングだった。

「えええええ!?!?中学のときも京都だった。沖縄が良い!海外が良い!」

私も、一緒になって「えーーー・・・・」と言ってみた。

私は、京都でも良かった。というか、修学旅行なんてなくて、授業でよかった。(現在は旅行好きですが、当時は違った。)

 
 

私は違和感を感じていた。

 
 

みんなが楽しいと感じている事が楽しくないのかもしれない。

みんなが楽しくないと感じている事が楽しいのかもしれない。

 
 

現在の脳みそで考えれば、これはとても良いことだった。

しかし、当時の私は、みんなが楽しめることを楽しめない自分に悩んでいたような気がする。

 
 

大学生になっても、体育の授業があった。

 

そこで、大学で出会った「K」という友達が言ったのだ。

「体育って嫌だよなー。」

彼は元ヤンみたいな見た目で、酒もめっちゃ飲むし、タバコも吸う。バリバリのロックドラマーでイケイケなリア充みたいなやつだったので、私はかなり衝撃を受けた。

「そ、そうだな。」

いきなりの不意打ちだったので、おれも心のそこから体育が嫌だったが、微妙な同意しかできなかった。

リア充っぽいやつでも体育が嫌いな人もいたのだ。

 
 

カルチャーショック

 
 

リア充はみんな体育が好きだと思っていた。充実してないおれみたいな非リアが体育が嫌いなのだと。

 
 

それから、いろいろな事を考え、楽しい楽しくないなんて人それぞれだ。

学校行事や体育が楽しめないから非リアなんてことはない。 

自分が楽しい事をすれば良いという結論に至った。

 
 

今となっては、当たり前の事だと思えるが、大多数の人が楽しいと思ってる事を楽しめない事もあるという事を自覚する事は重要だった。 

自分らしく生きるということはそれを自覚し、自分が楽しいと思うことを発見していくことなのかもしれない。

 
 

お読みいただきありがとうございました。

今や、ネットを見れば、勉強好き、哲学好き、の人もいっぱいいる。心強いな。と感じているキリンノックスでした。

 

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